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サッカーが教えてくれる多民族国家・スペイン

さて、これもコーチ時代に配ったもの。ただし、保護者向け。
大人は大人なりにサッカーの文化に興味を持ってほしいがため、
子供の付き添いではなく、親もサッカーを楽しんでもらいたいため
こんなのを書いてました。
中には楽しみにしてくれる方もいたんですよ。
ちょっとネタが古いですが・・・

保護者の皆様、こんにちは。西小コーチの○○です。
さてさて、「サッカーを取り巻く世界」、6回目は「サッカー虫眼鏡」で“スペイン”を覗いてみようかと思います。
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スペインリーグ(リーガ・エスパニョーラ)はイタリア・セリエAやイングランド・プレミアリーグと並ぶ世界最高峰のリーグです。いや、現在、最も面白くしかも強いのがリーガです(“リーグ”はイタリア語では“レガ”、スペイン語では“リーガ”と発音されます)。
スペイン人自体のサッカーのレベルも非常に高く、日本が準優勝した1999年のワールドユース大会で日本から4点を奪って優勝したのがスペインチームでした。そのスペインのナショナルチームの通称が“アルマダ(無敵艦隊)”。しかし、実力では世界のトップクラスなのに国際試合の檜舞台ではパッとしないのです。その一番の原因が“民族対立”です。
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「神はスペインにすべての物を与えている。穏やかな気候、豊かな大地、流れる清らかな川、
しかし唯一政治だけを除いて。」 ~ある高名な学者の言葉から
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面積は日本の約1.5倍、大西洋と地中海の接点に位置しアフリカと接するスペインは、古くから様々な勢力が往来し、地域ごとに異なった歴史を歩んできました。何も知らずスペインを旅する人はその地域格差や生活レベルの差に驚いてしまうようです。スペイン・バルセロナで育った人が北西部のガリシア地方に行くと、それは海外旅行と同じ。同じ国なのに言葉もまったく異なっているのです。カタルーニャ語(カタラン)、バスク語(エウシカラ語)、バレンシア語(バレンシアーノ)・・・・。
そう、異常なまでに地域の自立性が強い国、それがスペインです。地域によっては自分のクラブチームは応援しても代表チームにはほとんど関心を持たなかったりします。Jリーグには興味がないのに代表チームには関心が高い日本人や韓国人には俄に信じがたいですが。
そんなスペインの中で、今回、特に独立心が強いカタルーニャとバスクについて紹介します。

1.カタルーニャ人の想い
カタルーニャはスペイン北東部にある州で、その中心地は言わずと知れた“バルセロナ”。
バルセロナとは「バルカの家」を意味します。当時、隆盛を誇っていたローマ帝国に対しての前進基地として、カルタゴ(現チュニジア)の将軍ハミルカル・バルカがイベリア半島に建設した都市の1つ・・・それがバルセロナです。いきなり余談ですが、ローマを苦しめたことで名高いハンニバルはこのハミルカルの息子になります(映画「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクター博士ではないので注意!)。
ローマ時代後イスラム帝国の支配を受けましたが、801年フランク王国に属したのをきっかけに独立してバルセロナ伯領となりました。このためスペイン南部に残っているようなイスラム文化の影響よりも南フランス地域との文化的関係を維持し、独自のカタルーニャ文化を発展させたのです。
12世紀にはカタルーニャ王国・バルセロナが成立。内陸部のアラゴン王国と合併した後も自治組織を維持しながら、都市国家ジェノバやヴェネチアと並ぶ地中海貿易の中心地として大いに繁栄しました。しかし15世紀、そのアラゴン王国がカスティリャ王国と合併してスペイン王国を形成すると、政治の中心地はカスティリャの首都・マドリードに移り、カスティリャの主導下でカタルーニャの政治的地位は低下していきます。ここから、カタルーニャの歴史は中央支配への抵抗の歴史として、カタルーニャ人独特の抵抗意識を育むことになります。
そして、1936年、決定的な影響を与えた人物の登場を迎えます、その男の名はモロッコ駐在軍の将軍フランシスコ・フランコ。1939年にはドイツ・ナチス政権、イタリア・ファシスト政権の軍事供与を得、独裁体制が成立します。フランコ将軍は「自治」「独立」を求める地域・人々を激しく弾圧し、カタルーニャ語使用禁止、街の名前や標識などもすべてカスティリャ語(スペイン語)に変えさせるなど、文化抑圧政策を実施しました。大日本帝国の朝鮮支配に似ていると思いませんか?
こうした「弾圧」の歴史の中で、サッカーは重要な位置を占めてきました。カタルーニャ語が禁止されていた当時、カタルーニャの人達にとっては、サッカースタジアムがカタルーニャ語で会話できる唯一の場所でした。そして同時に、他地域、特にマドリードに対して自分たちの存在や感性を示すことのできる場所でもあったのです。
現在でも抵抗意識は大きく残っています。レアル・マドリードではユニフォームの襟元にスペイン国旗が縫い込まれ、ホームスタジアム“サンチャゴ・ベルナベウ”でもスペイン国旗がうち振られていて、スペイン国家への帰属意識が強いことがわかります。しかし、カタルーニャを代表するビッグクラブ・FCバルセロナのホーム“カンプ・ノウ”を埋めるのはカタルーニャ地方の旗です。それどころかスペイン国旗をガンガンと燃やし、中指を立てるのです。
つい先日、リーガの2大クラブといわれたレアル・マドリード-FCバルセロナの今季第1戦カンプ・ノウでこんな出来事が起こりました。レアルのルイス・フィーゴがコーナーキックを蹴ろうと歩き出したとき、サポーターからゴミやペットボトルやウイスキーの瓶、時計やバッグ、豚の頭などが投げつけられました、地鳴りのように会場を揺らす大ブーイングとともに。試合はもちろん中断。フィーゴはFCバルセロナの元キャプテンでFCバルセロナからレアル・マドリードへ高額で移籍した経歴を持つため、バルセロニスタ(バルセロナファン)から見れば金の亡者・裏切り者・犯罪者なのです。レアル・マドリーからバルセロナに移籍したルイス・エンリケの時も同様でした。
サッカーを愛する僕としては、彼らの移籍が金だけの問題でなかったことを信じています。歴史や人々の想いを知りながらも、プロとして、サッカーに賭ける情熱と夢のための移籍であった、と。

2.バスク岩
1937年4月26日、突然 “卍”のマークをつけた多数の爆撃機が、ゲルニカを襲った。フランコ将軍がその地位を確立するためナチス・ドイツ軍に協力を要請したのだった。この爆撃に対し、かの有名な画家・ピカソが大作「ゲルニカ」を描き上げたことは有名である。そのゲルニカは、バスク地方の中心地となる都市ビルバオより電車で50分のところに位置している。
雨のような爆撃、崩れる地盤、続く支配。今もなおバスク人の心に残る深い悲しみと憤り。
現在でも独立運動を続けるETA(バスク祖国と自由)なるテロリスタが存在するバスク地方。彼らの最終目的はバスク地方にナバーラ県を含めた7つの県を独立させることにあるのだ。
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バスク地方はフランスとスペインの国境、イベリア半島にあるピレネー山脈の麓にあります。古代ローマ帝国の支配を逃れ、イスラム軍の進入も許さず、フランコ将軍の支配を受けるまで独自の文化を育んできました。彼らバスク民族(エウスカディ)の民族形態は独特で、陸続きであり融合・離散を繰り返し現在に至る近隣の諸地域とは明らかに異なる文化・慣習が色濃く残っています。
・・・・「主イエスとペテロ聖人が一緒に旅をしていたときの物語である。ある時、ペテロ聖人が辺りの美しい景色に見とれていて足下の注意が疎かになり、大きな岩に躓いてひどく足を痛めてしまう。怒った彼がその石を抱え思いっきり遠くへ投げつけ破壊しようとした時、イエスが言った。「ペテロよ、そんなに怒るものではない。私はその大きくごつい石でバスク人を創ろうと思う。」 こうしてバスク人はこの世に誕生した。」 ・・・・ バスク地方に伝わる昔話より。
この昔話はかなりのエスプリとアイロニーが利いた話ですが、バスク人をよく表しているようです。彼らの性格は少し無骨で無口。初対面でもすぐにうちとけてフレンドリーな関係を気づいてしまう一般的なスパニッシュと比べて比較的とっつきにくい性格です。彼らは仕事に対し大変勤勉であり、情にも厚い。そんな彼らだからこそ、ヨーロッパ屈指の鉄鋼の町、ビルバオを構成しているのかも知れません。「我らは岩から創られた」と胸を張るバスク人は、ヨーロッパ人の祖先と言われているクロマニョン人の直接の子孫という説もあります。また全人類の傾向とは全く逆に、からだに流れる血液においてはその85%がRhマイナスであるという特異性も興味深いことです。
言語も独特のエウシカラ語(バスク語)を話します。語彙に関しては75%までがケルト語やラテン語、ロマン語などからの借用なのですが名詞の各語尾を示す接尾語はラテン語でさえ6個しかないのに、エウシカラ語には12個も。ヨーロッパ言語の源流といわれるラテン語と比較してもこの複雑さは異常であり、「言語体系は文明の進化と共に簡略化の傾向にある」という一般的見解に逆らうかのように、バスク人は頑ななまでに自己使用言語の変化を拒否し続けているのです。さすが岩から生まれたバスク人!
バスク人は外見からも一目瞭然。ブロンドで、鮮明なブルーやグリーンの眼。イタリアやスペインなどのラテン系民族は黒髪にブラウンの眼がほとんどなのに、バスク人にはそれが当てはまらない。これは異民族との混血がほとんど進まなかったことの現れです。さすが、クロマニョン人の直接の子孫と語るエウスカルドゥナク(バスク人)!
そんな彼らにとってもサッカーは大きな存在なのです。カタルーニャよりもっと自分たちの文化を大切にし、それ故にもっともっと中央への反抗・反逆心が強いバスクにとっても。
バスク地方を代表するクラブといえば、なんと言っても「アスレチック・ビルバオ」。創設以来100年以上の歴史において、いっさい外国人選手を起用しないどころか、バスク地方出身者だけでチームを構成しているという“奇跡”のチームなのです。リーガが世界一のレベルを誇っている中、片田舎の1地域出身者だけで1部リーグに居続けることは驚異以外のなにものでもありません。同じくビトリアにある「アラベス」も“スペイン人”は起用せず、“バスク人”か“外国人”という構成になっています。
サッカーにおいてもフランコ将軍の抑圧は大きかったようです。チーム名を変えられてしまったこともあります。「アスレチック・ビルバオ」の“アスレチック”は英語であり、スペイン語では“アトレティコ”。19世紀にビルバオに住んでいた英国人がスペインにサッカーを広めたことからバスク人は「スペイン人にサッカーを教えたのは我々だ」という言い方をしています。“我らがクラブ”の名称まで変えられたときの憤りはどれほどだったでしょう。首都マドリードにある「アトレティコ・マドリード」とバスクの星「アスレチック・ビルバオ」には目に見えない大きな温度差があるのです。
そんな「アスレチック・ビルバオ」にも実は過去に外国人が所属していたことがあります。その人はフランス人のビセンテ・リザラズ。なぜ彼がプレーできたかというと、フランス系・バスク人であったからに他ありません。現在の国境なんてバスク人にとっては関係ないのです。問題なのは「バスク人かそうでないか」、いや、「カスティリャ人及びその仲間かそうでないか」なのだから。

□▽◆▼☆●◎▲■△▼★☆■△▼◇▲○○☆★▼◎
毎年、年も暮れることになると各州で選抜チームが結成され、他国との親善試合が行われます。去年はカタルーニャ対リトアニア、アンダルシア対モロッコ、カタンブリア対エストニア、他にもアストゥリアス、エウスカディ、カナリアも試合を行いました。なぜって? 彼らは誇示したいからです、
「スペイン代表よりも強い、我々の代表だけでも戦える」と。
下のバスク代表のユニフォームを見てください。
まだ記憶に新しい2002年ワールドカップ、そのひたむきさで日本中を虜にしたアイルランドよりも、もっと鮮明で混じりっけのない彼らの眼のようなライトグリーンのユニフォームではないでしょうか?

(訳あって画像が載せられないので、バスクのユニフォームに興味のある方はネット検索してください。)
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